トキメキ備忘録

人生だね

キス・ミー

気温のせい

10月も終わりそうなのに暑かったり寒かったりして自律神経が心細そうにこちらを見ている。そのせいだろうか、気分の落ち込みが激しい。大変だ。寂しい。最近めちゃくちゃ寂しい。でも何がどんなふうに寂しいかって聞かれると、「いや~最近寒くなって来たし、気のせいだと思うんだよね。寒いと人恋しくなるとか言うじゃん。たぶんそれだよ。私は甘ちゃんですからねえ~そっちは最近どうなの?」と言ってしまうことであろう。謙遜なのか自虐なのか分からない言葉と共に、まあまあ私のことはいいから、という会話をいつもしがちである。この癖を直したらもっと友達ができるんだろうけど、たぶん無理だ。

気分の落ち込みは私の心に重く居座るに飽き足らず、私をさらに物思いにふけらせる。就活。これが私を早くも悩ませ始めている。深夜1時に、私って就職できるのかなとか、薄給でもやりたいことやったほうがいいのかなとか、そもそも働けるんだろうかとか同じようなことをずっと考えている。なんて不健康なのだろうか。何回そのサイト見たら気が済むんだよ。もう寝なさい。早くワセリンで手をべたべたにして無理やり寝なさい。そんな深夜まで起きるくらいだったら、銀河英雄伝説の人物相関図を勝手に作って楽しくなった方が人生のためだ。そしたら楽しくてもっと寝られないか。まだ2年生なのにもう就活の話するのやめてほしい。26卒なんて私のこと呼ばないでよ。自分を商品みたいにして誰かに売り込むのってマジで疲れるんだから。なんちゅう制度なんだ、就活って。

自分を認めるとは

そんなこんなで秋も深まってんだか深まってないんだかよくわからないまま冬になって、春が来て、3年生になる。きっと来年も同じように寂しくなって深夜に不毛なインターネットサーフィンをするのだ。

人生において一度自覚したら、無意識にやっていた時の自分が急に思い出せなくなることがたくさんある。意識し始めた感情も癖も行為もその瞬間から「私」を形作るものになり、その大半は自分を嫌う原因になるのだ。どうしようもなく悲観的で、心配性であきらめの早い私はこれからの人生うまく生きていけるのかな。人生に上手いとか下手とか言ってる時点でもう駄目なのかな。そんなこと言ってないで行動したらいいのかな。私は私を完璧に好きになりたいなんて思わないけど、好きが嫌いより多い方がいい。

自分を好きになるって、私の中では「中の上から上の下にいること」なのだ。今まで私が置かれてきた環境と言われてきた言葉の多くが、相対的な自分の位置を逐一確認させ、(私にとっても、私以外の人にとっても)望ましい位置にいないと焦らなければならない、状況を打開せねばならない、と思わせてきた。つらくて、私には向いていなかった。こんな考えに浸って生きるのが本当に嫌だけどどうしても逃げられない。脱却方法が今のところ不明だ。分かり方も分からない。数学みたいだ。そしてこの考えは言わずもがな私以外の人間の存在(しかも「中の下」とか「下の上」で見られるのだ)が必要である。それはつまり他人と自分を比べて自分の納得する立ち位置を得るということだ。しかし、それを基準に人を見る自分に気づいたら「他人と比べる」という部分ばっかりフォーカスされて、比べる自分を嫌いになる。自分を好きになるために思考したはずなのに、気づいたら自分が嫌いになっている。こんな滑稽な堂々巡りがあるだろうか。これも私の人間らしい、かわいいところ?そんなの言い訳かな。

ジェラシーとわたし

ここからは建設的な考えをしていくことにする。ポジティヴ・シンキングしてる人って好きよ。今ちょっと自分のこと好きになったかも。てかこんなに律儀に真摯に自分と向き合ってんのマジで偉くね?QUOカードとかもらってもいいくらいじゃない?

とにかく、私の抱えるこの心の問題はジェラシーが大切なキーワードだと思う。ジェラシーゆえに、私ってあの人になりたいを一生繰り返すのかと思うとイヤ~な気持ちになる。当たり前だ。イヤ~って顔になっちゃうのに、人生においてもう10000回くらいは考えている。どんな時に考えているのか。おしゃれな服を着た人とすれ違ったとき、綺麗にメイクしている人を見たとき、友だちが私より偏差値が高い大学に通っていると知ったとき、先生が紹介する意見を聞いたとき、成績が自分より良いという人の話を聞いたとき、絵がとても上手な同年代を見たとき、美大に通っている友達の話を聞いたとき、バイト先で冷静に対処する先輩を見たとき、可愛くて面白くて明るい人と話したとき。

こんな感じだ。こういうのが所謂コンプレックスってやつなんだろうということは分かる。相手より私が劣っていて、劣っている私に価値はない。そういう思考回路である。しかし、しかしそうなのだろうか。自分を価値を自分で落として、あーあ、こんなんだから私はいけないんだ、で終わらせていいのだろうか。それよりもっと、なんかあるんじゃない?

わたしのジェラシー

私は、自分が手に入れられなかった(と思っている)ものを持っている人にジェラシーを感じるようだけど、みんなもそうなのでしょうか。そしてジェラシーを向けた人に対してへそを曲げるような、すねるような、悪態をつきたくなるような感情に襲われる。

この点については最近気づきがある。それは「すごく嫌いってすごく好きと同じ場合がある」ということである。すごく嫌いって書くと憎悪を抱いているみたいで恐ろしいが、要するに悔しいということである。あの人になりたいけどなれない、悔しい、これはジェラシー(ヒップホップ?)という公式があるんだと思う。

でもその人みたいになりたいって気持ちは、その人を好きにならないと起こらない感情だ。憧れにも似ていると思う。ということは、相手に対してマイナスの感情を向けているようで本当は自分の中にある「もっとやれたんじゃないか」「今からでもがんばれば自分なりに実現できるんじゃないか」という期待そのものにマイナスな感情を向けているのではないか。私には無理、あの人にはなれない、だって今の時点でどれだけ差があるか考えてもみなよ、とその人について勝手に想像して、人生楽しいことしかないんだろうなって決めつけて、私が持っていないものを羨ましがって馬鹿みたいだ。誰かにジェラシーを抱えているように見えて、私は自分自身を攻撃しているんだから。「憧れの対象でもあるあんな人になりたいという欲求」は「あの人にはなれない自分に課すプレッシャーへの嫌悪」と表裏一体だったのだ。

おわり

誰も私にはなりえないし、私は他の誰にもなれない。これだけ聞くとかなり陳腐なポエムに思えるけど、ここまで考えてきた私にはこれがやっぱり核なんじゃないかと感じる。陳腐ってことはみんな考えているってことで、みんな同じように自分たちを納得させようとして頭の中で唱えてきた言葉なのではないだろうか。自分を好きになってもいいんだと誰かに言ってもらえるのを待つのではやはり甘えすぎなのかもしれない。でも高校の時に、あなたの作る作品が好きですよと美術の先生に言ってもらったことを一生忘れないで心の支えにしたっていいでしょ。自分を肯定するのには得てして他人の存在が必要である。これも面白いところだ。

今回も支離滅裂な文章になってしまった。まだまだ考える余地がある問題だと思う。いつか友だちとも話して、議論がヒートアップして告白のし合いみたいになったら楽しそう。妄想は膨らむが、ひとまず課題を片付けねばならない。明日までなのに。スケジュール管理できる人になりたい。