トキメキ備忘録

人生だね

人生の赤点回避

はじめに

自己分析とかそういう大層なものじゃない。ただ自分がどんな時に落ち込むのか、何をしたら元気が出るのか、どんな人を好きになって、嫌いになるのか、言い出せばきりがないけどそういうことについて少しでも自分をわかりたい。これは、「分かってあげることで自分をもっと大事にできるから」みたいな自己愛あふれる動機からではない。もちろん、自己肯定感を上げて自分をもっと好きになろうとか自分の機嫌は自分で取ろうみたいな話でもない。私はそんな風潮が流行っていることに若干嫌悪感があるし、自分をいつも大事にしてより良く生きるのに向いてないと思う。気を使いすぎてしまうのは目に見える。しかも絶対途中で「正解」を探し出す。自分を大事にするのに疲れてしまっては本末転倒としか言いようがなくない?ダサくない?話がそれましたが、とにかくいろいろ気が付いたことを書く。以下性別二元論的な記述が多いですが、性のあり方は人それぞれでそれは尊重されるべきことであるということを明記させていただきます。

 

セクシュアリティについて

はじめからこれ?っていうチョイスだけどこれを書くためにはてなブログに登録したんだからね?(言い過ぎ)

人間という、矛盾を抱えに抱えまくった複雑怪奇な存在をカテゴライズするのはちょっと乱暴かもしれないけど、その複雑な私の大まかな形が見えてくるのではという期待からこのようにさせていただきます。

私は本当にセクシュアリティについてよく考える。すべての問題(アイデンティティに関すること)は結局この話に行き着くとまで思っている。衣食住と同じレベルと言っていいくらい、常に頭の片隅にこびりついているトピックなのだ。私はジェンダー論に強い興味関心があり、トランス差別や性差別に反対で、自分をフェミニストの端くれであると信じてやまないただの大学生です。高校2年生くらいからジェンダー論やフェミニズムに興味を持ち始めて今に至るけど、その過程でインターネットが果たした功績は大きい。LGBTQ+がまだよそよそしい雰囲気の言葉として私の目に映っていた時、Twitterにいた(もちろん今もいます)クィアたちの明るさや勢いは私を圧倒したのである!しかしいくら「よそよそしく映った」と言っても、完全に「私には関係ない」と言い切れる気は当時からあまりしていなかった。なぜなら私もその中の一人かもしれなかったから。その言葉は私を説明してくれそうだったから。つまり当時、私は同級生の女の子に恋愛感情(?)を抱いていた可能性が濃厚だった。

なんでこんな抽象的な書き方になるかというと、後になってそうかもなって思ったことだし、当時私が抱いていた感情を今では確認できないうえに、今の私が中学や高校のときの私とはセクシュアリティが違うと思うからである。流動的なんだから断言なんてできないよね。

というわけで私は恋愛感情(?)を女性に向けるようであることを高校の時点で薄々感じ取っていたわけです。じゃあ私はレズビアンなのかと申しますと、そう話は単純ではない。レズビアンについて調べたけど、どうやら恋愛指向と性的指向が女性の場合に使うラベルのようだった。…え?

性的な欲求って、何ーーーー!?!!?

この疑問が私の自我の芽生えだったと言っても過言ではない。この瞬間から私は自分の欲望とは何かに向き合うことになる。もっとも、多くの人はこれを考えすぎだと思うだろうけど私には私のやり方があんの。そこで見といて。

 

まず、性的な欲求とは、つまり他人と性行為をしたいと思うか否かっつーこと?という問題にぶつかった。結論から言うと2023年10月現在私は「キスもセックスも基本人生にいらないけどめちゃくちゃ仲良かったら考えちゃうな」って感じ。そして性的指向という点で今の私に一番近いラベルはデミセクシュアルだと考えている。でもかなりデミセクが強いためだいぶアセクシュアル寄りである。性欲がマジでないのだ。

ここで第2の問題が発生した。困っちゃうね。それは、相手の性別に関わらず抱く思いは同じなのか?という問題である。これも結論から述べると、「性別がどうであれその人との仲の良さによるけど、どちらかと言うと女性に惹かれることが多い」って感じ。なんとも曖昧な答えだけど私にはこれが全てなのだ。ここでもう一度、私は選択肢として性行為を選ぶ可能性がかなり低いということを強調しておく。もしかしてこれがスタンダードだったりしますか?んなわけないか?

そして私は気づいた。本当に仲が良いと私が思っていて、相手のことが好きで、そこには信頼関係があるなら…

ってアレ!??!??!これ友だちじゃない??!??!

私いつから友だちの話してた?これってまるきり友だちへの感情ですよね?(違うでしょと思ったかた、鋭いですね)

ここで第3の問題が浮上した。「好き」とは一体何なのかという問題である。「相手のことが好き」なら性行為も選択肢に入ると前述しましたがなぜこの「好き」を私は友だちに対するものと一緒と感じたのだろうか。ここでラベルがまた私を助けてくれる。私はすばり、クワロマンティックだったのだ!以下のような説明を参照します。

自分が感じる魅力のちがいを区別できない人、自分が魅力を感じているのかわからない人、恋愛的魅力や性的魅力は自分に関係がないと思う人。(アシュリー・マーデル『13歳から知っておきたいLGBT+』ダイヤモンド社/205ページより)

これこれこれ!!!!私これ!!!この言葉を知ったとき、他にもいるんじゃん、早く言ってよという気持ちになったのを覚えています。

つまり、相手を恋人とか友だちとかで分けて考えてみることが私の中では無い。名称に依る関係性を前提とした話は最初からしていなかったわけです。あれ、自分でもよく分からなくなってきた。でもわかりたい!より具体的に考えたらわかりそうだ。

Step①この人好きだなと思う人が現れる(ここにおける「好き」に恋愛感情か友情かは関係なし!私にとってそれらは同じことだから)

もうこの時点でだいぶすごい。私は知り合いもそうでない人も、身の回りの他人を少しずつ嫌っているというちょっと寂しくも可愛らしい性格の持ち主である。つまり第一印象がものすごく良い(窮地から私を救ってくれるとか)などのケースではない限り初めから人を愛せないという切ない人間です。したがって、この人好きとなるまでにはかなり時間がかかる上にその人のセンスとか考え方とか雰囲気とか話し方とか色々吟味が必要なのです♪ヤバ!気ぃ長!

Step②〜完〜

すいません、終わりました。その人と(精神的なつながりをもとにした、関係性の名前の更新に対する執着という意味での)どうにかなりたい!という感情がないからです。一緒に住みたい!とかはあるかもしれないけど、その人とは事実として「同居人」という関係で大丈夫です。だって恋人でも友だちでもあるその人の存在が好きなんだから(相手が私と同じ考えかどうかは置いといて)その2人の状態でもう十分じゃん。

関係の更新を進歩と捉えると、「(相手に)私のプライベートな部分に踏み込む余地を与えましたよ」という昇格みたいな受け取り方になると考える。だけど私はそのような関係性の名称の変更について2人で共有することや、今から私たちはこんな関係だからこういう約束事があるという確認にさして意味があるように思えない。もっと言うと、面倒くさい。

しかし、矛盾を抱えるのが人間というものである。

あれ?じゃあ私って彼氏とか彼女とかいらないのかな…いや、いらないわけがない。私も彼女を強かに匂わせ、この人誰?と言われたいし、え〜内緒❤️などと嘯きたい。しかしそうなるとさっき偉そうに言っていたこととまるで違うではないか。そう思いましたね?思いましたか?思ってなかったら、今思ってください。よしオッケー

否、ここで私をまた助けるのはラベルなのだ。みなさま、クワロマの説明文を今一度思い出してみましょう。私って「恋愛感情か友情か判断できない」んだから、「好き」に〈ココカラレンアイ〉みたいな点線はなくて当然である。つまりこの人愛やね…と思った人のことを、彼女であり大切な友だちでもある人間だと認識する。ただその状態を外から「付き合ってる」と言われるのがすごく嫌なわけ。わかった?私ってめちゃくちゃわがままなんだってことを今気づけた………………

だいぶ自分のことがわかったし満足したのでこの話は一旦おしまいだ。結局セクシュアリティの話で終わりじゃねーか!と呆れています。私が。でもこれさえ押さえときゃ大丈夫。私の人生テストで平均点取れるから。